学舞台の緞帳を彷彿とさせるベルベットのドレープの前、中央に設えられた台の上に立ちスポットライトを浴びた瞬間、朝海ひかる氏は圧倒的なオーラを輝かせた。宝塚歌劇団の雪組においてトップを極めた人ならではの、スターの華である。「男役の頃は、とにかく低く、とお腹の下から声を出す意識でセリフを話していました。歌のキーも低かったです。舞台で低い声を出すために、普段話す声もなるべく低くしたりして。声帯も筋肉ですから使うほど慣れるし、強くなるんですね。宝塚音楽学校時代には『拙者親方と申すは~』と歌舞伎十八番の『外郎売』の口上をお腹の底から野太く出し、自分の声帯を低い声に慣らすという授業もありました。娘役は逆に、頭の上から裏声のような高い声を出す感じの発声になるんです」。
声帯はもちろん、体全体を楽器として使いこなし、声の自在な表現を身につける。歌劇のプロフェッショナルたちの日々の鍛錬の一端を教えてくれた朝海氏だが、インタビューに答えるその声は、宝塚時代の重低音のパフォーマンスとはまったく趣が違い、軽やかな響き。退団以来、男役という制約を課していた発声法を調整し直すために、ボイストレーニングを続けてきたそうだ。「トレーニングにはずっと通っているんですが、男役の低い声を使うのにあまりに慣れ過ぎていたので、ようやく最近になって『これがいつもの私かな』という声になってきた感じなんです。娘役の発声もリアリティのある女性の役の声として届けるには、また全然違っていて。ミュージカル女優になられた男役の先輩から『訓練し直すのに10年はかかるから、長い目で』というアドバイスを以前にいただいていたんですが、本当にそうで(苦笑)、途中でくじけそうになったこともありました。でもやっと、なんとか掴めてきたかなと思います」。
声帯は、消耗品とも言われる繊細な器官。発声の安定にはプロでさえ長年を要するが、負担のかかる発声は喉を痛め、声の老化を早めてしまうという側面も。「声帯って、限りある資源なんです。だから、自分の声のキーや幅に合わせて、声帯を傷つけない方法も教わります。一方でおもしろいのは、普段は出せない音でも、宝塚時代に歌っていた曲ならイントロを聞くと自然に低い音も歌えてしまうこと。体や声帯が覚えているからかはわかりませんが、声って不思議だなぁと思いますね」りました。娘役は逆に、頭の上から裏声のような高い声を出す感じの発声になるんです」。
それに歌もそうですが、“出すぞ”と身構えると声は出にくくなるけど、感情が整ったうえで発すると、楽に声が出ます。人間の体って、感情に応じた声を出す準備が、自然に整うものなんだそうです。たしかに、赤ちゃんって高い声で泣き続けても、声を枯らさないですよね。もちろんテクニックとしての発声や体の使い方もありますが、私の場合は感情を動かすことで、声が使えるようになったと思います」。聞く側にとっても、棒読みの言葉は耳に入りにくいが、感情と一体になって発せられた言葉は、ずしんと心に響いてくる。「感情が乗ったほうが、お客様にもその役を受け止めていただける気がします。
この秋に出演した舞台(『日の浦姫物語)』では、演出家の鵜山仁さんからも』“ここはすごく重要ですよ"と思いながらしゃべってください』というアドバイスがあったのですが、舞台ではいつも『届け!』という気持ちをこめて話しているんです」。セリフの中で一番言いたいことは何か。この役の今の感情は? 何を相手に伝えたいか。通常の舞台では、公演の1ヵ月ほど前から俳優たちは稽古をともにし、本番に向けてセリフを自分の体に通し、伝える力を高めていく。「相手役の方も率直に芝居で返してくださるので、届いたかどうかも実感できます。ただ、稽古を重ねても、感情は揺れ動くものですから、本番その時々の感情で相手から予想外の返しが戻ってくることもあります。それも芝居の醍醐味ですね。言葉を話すってこんなに楽しいんだと、お芝居をさせていただくことで感じるようになりました」。
井上ひさしの『日の浦姫物語』やチェーホフの『かもめ』など、名作戯曲の主役とともに、海外ミュージカルの日本版への出演も続く。2020年の春に控えるのが、ブロードウェイミュージカルの新作『アナスタシア』だ。朝海氏はオーディションで、リリー伯爵夫人役に選ばれた。「昨年、ミュージカル『TOP HAT』ではロンドンのウエストエンドからクリエイティブチームが来日し、一から作品を作ったのですが、今回はブロードウェイからのスタッフです。世界で活躍する方々と一緒に仕事ができるチャンスは希少なので、なるべく自分のものにしたいと思っています。今、世界ではどんな俳優を欲しがっていて、どういうメソッドで声を出し、どんな声が求められているのかなど、世界の目線を知ることができますから」。
オーディションに際しては、ブロードウェイのオリジナルキャストのCDを聴いて役に求められる声を理解し、曲のレッスンに励んだ。「オーディション自体、楽しい経験でした。『リラックスしたうえで、あなたという人間を見る。それが役に合うかどうか。プレッシャーを感じてやることは何もない』と言われ、とても楽になったんです。声もよく出て、いつもどおりの力を発揮できました」。
目標を尋ねると、「常にフラットでいたい。変なこだわりを落とし、いただいた役にそのまま染まれる“白紙”のような女優になれたら」という答えが返ってきた。そのために日々の鍛錬を続ける。声のトレーニングももちろんのこと。「朝はまず、『ん~ん』と抑揚を付けたハミングで喉を起こし、少しずつ音程をあげ、最後は上から下まで『ん~~~~~ん』と音域を全部つなげたハミングをします。急に高い音を出すと喉が詰まるので徐々に。このウォーミングアップをするのとしないのでは、声の出方や質が全然違います」。喉のメンテナンスには、吸入や飴をなめるなどで常に潤すことが大事。また声帯は、テレビなどからの音にも反応して響くため、無音の環境で過ごすと喉の回復は早くなる、というプロの知恵も。
魅力的な声についても訊いた。「素直で透明感のある声が好きですね。ナレーションなどでは、シンプルに言葉が入ってきて頭の中で文字が立体化するような声。あと、人それぞれに伝わりやすい声の周波数がある気もします。私はもともとモゴモゴと話すタイプで、電話などで本名を名乗っても別の名前が返ってきてしまうほどだったんです。そこで、口の中を狭くして空気の通り道を絞り、少し高めの声を出すようにしたんです。それからは、百発百中で伝わってます(笑)」。プロの役者ならずとも、声は重要なコミュニケーションツールだ。低めの落ち着いた声で、相手が相槌を挟めるスピード感で話すと信頼感が増す印象になるのでは、というアドバイスも。「人前で話す前には、手を握るようにして指を動かしたり、足の親指を回すなどで意識をそらすと、首や肩周りの力が抜けて声が出やすくなりますよ。飲み込んだ唾の流れを意識するなどで自分の体内への集中力を増せば、緊張はとけるとも言われています」。そして何より痛感するのは、「伝えたい」という強い想いがやはり大切だということだ。「ボールを投げるように手をつけて発声する練習もあるんですが、「伝われ~」という意思を込めるかどうかで声の届き方は違ってきます。
プレゼンテーションなどでも“この企画をどれだけ愛してるか”が伝わってくれば、それは響きますよね。伝わる声って、突き詰めればどれだけ感情を豊かにするか、なのかもしれませんね。私も、いろいろなものを見て、いろいろな感情を体験し、人間として成長していきたいです」。