4年に一度の祭典が日本で開催されるとあって、ラグビー関係者や愛好者たちは祈るような気持ちでいたに違いない。人気スポーツの陰に隠れがちな愛すべき球技が、どうか日の目を見てほしいと。蓋を開けてみれば、日本中を熱狂の渦に巻き込む、かつてない大フィーバー。「あんなに多くの方々に応援していただけて本当にうれしかったです。ただ、これほどとは思わなくて正直驚きました!」。背番号11。日本代表の左ウイングはまるで他人事のように微笑むのだが、この人こそ列島を熱狂させた“韋駄天”だ。福岡県古賀市に生まれた福岡堅樹選手は、5歳の頃にラグビーと出合った。
「高校、大学とラグビーをやっていた父親の影響です。ちょうどその年に創設された地元のクラブチーム『玄海ジュニアラグビークラブ』の見学に連れて行ってくれました」。こどもの頃から足が速かった。「相手が必死に捕まえに来るのを触れさせずに駆け抜ける。その爽快感にハマりましたね」。虜になった福岡選手は中学、高校とラグビーを続けた。強豪校から推薦の話もあったが、県内屈指の進学校である福岡県立福岡高等学校へ進んだ。
「祖父が内科医で父が歯科医という家庭環境もあり、将来は医師になりたいという夢があったので進学校へ進みました。ラグビーで食べていくことは、当時まったく考えていませんでした。ラグビーで生きていくことを意識したのは日本代表に選ばれてからです。大学ラグビーもやるつもりはありませんでした。福岡高校は医学部へ進むために有利でもあり、そして花園出場経験をもつラグビー部があったんです。高校生のときは、自分のラグビー人生のゴールを花園に定めていました」。のちに日本の至宝となる福岡選手は、高校卒業とともにラグビーも卒業するつもりだったのだ。
「さすがに焦りました。でも手術を回避する治療なら、万全ではないにせよ花園の予選になんとか出られるかもしれない、と医師がおっしゃったので、じゃあもうそれに向けてやるだけだと切り替えました。怪我したことを嘆いても治るわけではありません。起きてしまったことは、もう元には戻せませんので」。足に負担をかけないトレーニングを黙々と続け、傷が癒えるのを待った。「こどもの頃から、あまり悩んだことがないんです。自分でコントロールできないことをあれこれ悩んでも仕方がないですし、自分にできることを精一杯やるしかない。嘆いていても何も解決しませんし、くよくよしている時間は無駄でしかありません。ある意味、合理主義なんだと思います」。
そうした考え方は、いつ頃から醸成されたものなのか。「昔から父親と、疑問に思うことや悩んでいることを男同士で包み隠さず話してきたんです。今でも一緒に風呂に入りながら話をするんですよ。父親は合理的でポジティブな考え方をする人間なので、その影響が強いのかもしれません。スポーツも勉強も遊びも、やりたいことを全力でやってきただけです。高校時代はバンドを組んでいましたが、それも全力で楽しみました」。
決してストイックな姿勢で文武両道を極めようとしてきたわけではない。少年期から、よく学びよく遊んできたのだ。2010年12月30日。福岡選手の姿は花園ラグビー場にあった。全国大会2回戦の後半17分。治療を担当する医師からのドクターストップ。夢の花園にどうにか間に合わせたものの、もはや立っていられないほど膝は限界を迎えていた。本来であれば即手術すべきところを福岡選手の気持ちを汲み、保存療法を採ってくれた医師からのストップ。福岡選手は素直に退場し、「先生のおかげで花園に立てました」。と感謝を伝えた。「我の治療はもちろん、メンタル面にも寄り添ってくださって、前向きな気持ちにさせてくれる先生でした。自分もこんな医師になりたいと強く思いました」。花園出場という悲願を果たした福岡選手は、次なるゴールラインを見据えた。人の気持ちに寄り添うことができる医師になりたい。手術を受ける麻酔には、意識をまったく失う全身麻酔などがあるが、福岡選手は医師に下半身麻酔を申し出た。そしてモニターで術中の自分の膝の中を観察したのだった。
「花園へ出場できた代わりに、第一志望の筑波大学医学群に合格できないことはわかってたので、浪人の覚悟はできていました。でも高校を卒業してラグビーを離れたことで、一浪中はよりラグビーへの想いが強くなっていきました。怪我で高校代表の大会にも出られないまま引退したことが残念でしたし、大学1年生になった同期の選手たちが活躍している姿を観て……このままラグビーをやめてしまったら絶対に後悔するなぁと」。悩みに悩んで結論を出した。
ラグビーを悔いのないところまでやり抜く。その後に医師になる。どちらかの夢を捨てることなく、二兎追うことを福岡選手は選んだ。「どの道を選べば一番後悔しないか。この物差しでずっと生きてきたので、今まで選んできたことに後悔はありません」。筑波大学の医学群ではなく情報学群へ進学し、再びラグビーの道へ戻った。一浪のブランクを物ともせず、大学2年生で日本代表に初選出された。「19年には日本大会があって、その翌年には東京五輪があるわけです。代表に選んでいただいたことだし、僕がラグビーの道を途中でやめたら、ほかの選手にも失礼になると思いました。日本大会と東京五輪にチャレンジできるのであれば、精一杯やろう。それから医師を目指そうと」。その後の活躍は目覚ましいものだった。大学卒業後の16年にパナソニック ワイルドナイツに加入。同年7月にはリオデジャネイロ五輪の7人制日本代表に選ばれた。19年の活躍は言わずもがな。日本が誇る俊足はトライを量産。ベスト8への原動力となった。
「19年の日本大会、20年の東京五輪は、やはりアスリートとしては大きな節目ですし、ゴールとしてこれ以上ないタイミングだと思っています。トップリーグの開催時期がまだ正式に決まっていないので何ともいえませんが、20~21年にかけてのトップリーグ期間の終了をもって、選手生活を終える予定です」。そして、もうひとつの夢に向かって走り出す。「ラグビー界では僕よりすごい選手はいっぱいいます。医学や学問の世界も、僕より優れた方は数えきれないほどいる。でもラグビーで国の代表になって、その後に医師になる人間はいないはずです。自分にしかできないことをやってみたい、という野心があります」。
全国区、いや世界的な知名度を得た福岡選手は、図らずも自身の進路を世界中に公言したことになる。「途中でくじけそうになったり、諦めそうになっても、公言していればやらざるを得ないじゃないですか。そうして敢えて逃げ場をなくしているところはあります。昔から自分の目標を周囲に言うようにしてきました。やっぱりやめた、と言うのは格好悪いじゃないですか。だから意地でもやるしかない。そうしないとダラダラしてしまうんです。僕は本来、グータラなんで」。それでも、である。家族や友人に公言するのとはわけが違う。世界中に宣言した形は、本当に逃げ場がないではないか。「皆さんに知ってもらうことで、助けてくださったり、応援してくださる方が現れるじゃないですか! そしたらラッキーかなって」。福岡選手は自らのポジティブさを、まるで楽しむように笑った。